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46センチ主砲戦艦大和(ヤマト)について

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大和(やまと)は、大日本帝国海軍が建造した大和型戦艦の1番艦。2番艦の武蔵と共に、史上最大の46センチ砲を搭載した超弩級戦艦である。世界最大の戦艦だった。呉海軍工廠で建造。昭和16年(1941年)12月16日就役、昭和20年(1945年)4月7日、天一号作戦(坊ノ岬沖海戦)で沈没。

大和
豊後水道の宿毛湾沖合付近を公試航行中の大和(1941年10月30日)
豊後水道の宿毛湾沖合付近を公試航行中の大和(1941年10月30日)
基本情報
建造所
呉海軍工廠
運用者
大日本帝国海軍
級名
大和型戦艦
建造費
約137,802,000円
(1936年3月 艦政本部試算)
所属
大日本帝国海軍 第二艦隊(最終時)
艦歴
計画
第三次海軍軍備補充計画
起工
1937年11月4日
進水
1940年8月8日
就役
1941年12月16日
最期
1945年4月7日午後2時23分鹿児島県坊ノ岬沖(北緯30度43分17秒・東経128度04分00秒)左舷への航空魚雷を多数被雷、傾斜を復元できず転覆、後に爆沈
除籍
1945年8月31日[1]
要目
排水量
64,000トン(基準)
69,000トン(公試)
72,809トン(満載)
全長
263.0 m
水線長
256.0 m
最大幅
38.9m
吃水
10.4 m
飛行甲板
全通甲板(建造中3番艦信濃のみ)
ボイラー
ロ号艦本式缶12缶
主機
艦本式タービン
出力
153,553馬力
推進
4基
最大速力
27.46ノット(約50.8 km/h)[2](公試成績)
航続距離
16ノット(約29.6 km/h)で7,200海里[注釈 1](13,334 km)
乗員
竣工時:2,500名
最終時:3,332名
兵装
竣工時
45口径九四式46cm3連装砲塔[注釈 2]:3基9門
60口径三年式15.5cm3連装砲塔[注釈 3]:4基12門
四十口径八九式十二糎七高角砲:6基12門
25mm3連装機銃:8基16門
13mm連装機銃:2基4門
最終時
45口径46cm3連装砲塔:3基9門
60口径15.5cm3連装砲塔:2基6門
40口径12.7cm連装高角砲:12基24門
25mm3連装機銃:52基156門
25mm単装機銃:6基6門
13mm連装機銃:2基4門
装甲
舷側 410 mm+15 mm(傾斜20度)
対水雷防御隔壁 205-75 mm
最上甲板 35-50 mm
主甲板 200-230 mm
合計甲板装甲 250 mm
バルクヘッド 340-300 mm
主砲防盾 660 mm
主砲側面 250 mm
主砲後面 190 mm
主砲天板 270 mm
主砲バーベット 560-380 mm
司令塔 500-380 mm
搭載機
5機(カタパルト2基)
零式観測機
零式水上偵察機
レーダー
二式二号電波探信儀一型(21号電探) 仮称二号電波探信儀二型(22号電探)三式一号電波探信儀三型(13号電探)
ソナー
零式水中聴音機
その他
同型艦 2番艦武蔵

3番艦信濃(航空母艦として建造)
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目次
概要

大和型戦艦の1番艦[4]である(二番艦は武蔵)。大和の艦名は奈良県の旧国名の大和国に由来する[5]。艦名は、明治・大正時代の海防艦/特務艦大和[6]に続いて二代目。

大和は戦艦として史上最大の排水量に史上最大の46cm主砲3基9門を備え、防御面でも、指揮系統の集中する重要区画(バイタルパート)では対46cm砲防御を施した戦艦であった。設計はもちろん、ブロック工法の採用など施工においても当時の日本の最高の技術が駆使された。しかし、その存在、特に46cm主砲の搭載が最高軍事機密であったので、建設時から秘匿に力が注がれ、また完成が数日差ながらすでに戦時中になっていたこと、さらに敗戦前後に設計図含め多くの記録が焼却処分されたために、その姿をとらえた現存写真は非常に少ない。

太平洋戦争(大東亜戦争)開戦直後の1941年(昭和16年)12月16日に就役、最後の公試運転は真珠湾攻撃が行われた同年12月8日。1942年(昭和17年)2月12日に連合艦隊旗艦となった(司令長官山本五十六大将)[7]。6月上旬のミッドウェー作戦が初陣となった。1943年(昭和18年)2月、司令部設備に改良が施された同型艦の武蔵がトラック島に進出し、同艦に連合艦隊旗艦任務を移譲。同年末、大和は輸送作戦中にアメリカ潜水艦の雷撃により僅かな被害を受けた。 修理・改装後、1944年(昭和19年)6月の渾作戦、マリアナ沖海戦に参加した。同年10月中旬以降の捷一号作戦で、アメリカ軍の護衛空母部隊(タフィー3)に対し46cm主砲砲撃を実施した(レイテ沖海戦)。1945年(昭和20年)4月7日、天一号作戦において第二艦隊(第一航空戦隊)旗艦として麾下の第二水雷戦隊と共に沖縄方面へ出撃したがアメリカ軍の空母機による空襲を受け撃沈された(坊ノ岬沖海戦)。

→大和・武蔵に共通する特徴については「大和型戦艦」を参照
沿革・艦歴

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ロンドン海軍軍縮条約の失効から1年後の1937年(昭和12年)、失効後にアメリカ・イギリス海軍が建造するであろう新型戦艦に対抗しうる艦船を帝国海軍でも建造することが急務とみた軍令部は、艦政本部に対し主砲として18インチ砲(46センチ砲)を装備した超大型戦艦の建造要求を出した。この要求を満たすべく設計されたのが「A140-F6」、すなわち後の大和型戦艦である。「A140-F6」型は2隻の建造が計画され、それぞれ「第一号艦」「第二号艦」と仮称された[8]。しかし当時すでに航空主兵論が提唱され始めていたこともあり、山本五十六ら航空主兵論の将校からはそうした大型艦の建造が批判されていた[9]。

1937年(昭和12年)8月21日、米内光政海軍大臣から第一号艦製造訓令「官房機密第3301号」が出ると[10]、5年後の1942年(昭和17年)6月15日[11]を完成期日としてここに第一号艦の建造が始動した。同年11月4日には広島県呉市の呉海軍工廠の造船船渠で起工[12]。長門型戦艦1番艦長門や天城型巡洋戦艦2番艦赤城(空母)を建造した乾ドックは大和建造のために1メートル掘り下げて[13]、長さ314メートル、幅45メートル、深さ11メートルに拡張された[14]。イギリスやアメリカにこの艦を超越する戦艦を作られないように建造は秘密裏に進められ、設計者たちに手交された辞令すらその場で回収される程だった[15]。また艦の性能値も意図的に小さく登録された[16]。

大和ミュージアム展示の戦艦大和の46cm砲弾。
機密保持は厳重を極めた[17]。造船所を見下ろせる所には板塀が設けられ、ドックには艦の長さがわからないよう半分に屋根を架け、棕櫚(しゅろ)の葉を編み込んだ大量の筵が全面に張り巡らされた[18]。建造に携わる者には厳しい身上調査が行われた上、自分の担当以外の部署についての情報は必要最小限しか知ることができないようになっていた[19]。造船所自体が厳しい機密保持のために軍の管制下に置かれた[20]。建造ドックを見下ろす山でも憲兵が警備にあたっていた。しかし海軍関係者の間で巨大戦艦建造の事実そのものは公然の事実だった[21]。海軍兵学校の生徒を乗せた練習機が大和の上空を飛び、教官が生徒達に披露したこともあったという[22]。大和型戦艦建造の際の機密保持については、多くの建艦関係者が行き過ぎがあったことを指摘している[23]。

1940年(昭和15年)3月3日、海軍は③計画1号艦の艦名候補として『大和』と『信濃』を挙げ、3月6日に昭和天皇は『大和』を選択した[24][25]。軍艦の命名は、海軍大臣が複数の候補を選定して天皇の治定を仰ぐことが定められていた[26]。天皇の決定をうけて吉田善吾海軍大臣は「第一号艦」を大和(やまと)と命名した[3]。なお同日附で③計画の各艦艦名、武蔵(2号艦)、翔鶴(3号艦)、瑞鶴(4号艦)も決定している[24]。

同年8月8日進水[27][28]。ただし進水といっても武蔵(三菱長崎造船所建造)のように陸の船台から文字通り進水させるのではなく、大和の場合は造船ドックに注水してから曳船によって引き出す形で行われた[27]。しかも機密保持からその進水式は公表されることもなく、高官100名と進水作業員1000名が見守るだけで、世界一の戦艦の進水式としては寂しいものだった[29]。昭和天皇が海軍兵学校の卒業式出席という名目で大和進水式に行幸する予定が組まれ、造船関係者は社殿風の進水台を制作するも[27]、進水式は結局天皇の義兄にあたる久邇宮朝融王海軍大佐(香淳皇后の兄、当時海防艦八雲艦長)臨席のもとで行われた[27][30]。海軍大臣代理として式に臨んだ嶋田繁太郎海軍中将は、それまで仮称「一号艦」と呼ばれていたこの巨艦のことを初めて、ただし臨席者にも聞き取り難いほどの低い声で、大和と呼んだ[31]。造船関係者は葛城型スループ2隻(大和、武蔵)が既に廃艦になっていることから新型戦艦(本艦)の艦名を大和と予測、橿原神宮と千代田城二重橋を描いた有田焼の風鈴を500個制作、関係者のみに配布した[32]。 8月11日、帰京した朝融王は天皇に大和進水式について報告した[30]。

大和進水後のドックでは大和型4番艦111号艦の建造がはじまったが、大和の艤装工事に労力を割いたため111号艦の進捗は遅れた[33]。一方の大和は前述のように1942年6月の竣工を目指して艤装工事を続けたが、日本海軍は本艦の完成時期繰り上げを命令[11]。

昭和16年(1941年)9月20日、呉工廠で最終艤装中の大和。右端に見えるのは空母鳳翔。三番砲塔上部に見えるのは間宮。
1941年(昭和16年)10月18日、土佐沖での試運航で、荒天(風速南西20m)の中で速力27.4ノット(約50.7km/h)を記録[11]。続いて30日の宿毛湾で、全力公試27.46ノットを記録[2]、11月25日には山本五十六連合艦隊司令長官が視察に訪れた[34]。12月7日、周防灘で主砲射撃を実施した[11]。真珠湾攻撃の前日だった。12月8日、南雲機動部隊の収容掩護のため豊後水道を南下する戦艦6隻(長門、陸奥、扶桑、山城、伊勢、日向)、空母鳳翔、第三水雷戦隊以下連合艦隊主力艦隊とすれ違う[35]。 呉帰投後の第一号艦(大和)は12月16日附で竣工した[12]。同日附で第一戦隊に編入された[36]。艦艇類別等級表にも「大和型戦艦」が登録された[4]。大和の1/500模型は昭和天皇と香淳皇后天覧ののち海軍省に下げ渡され[37][38]、海軍艦政本部の金庫に保管されたという[39]。

大和には当時の最新技術が多数使用されていた。日本海軍の軍艦では最初に造波抵抗を打ち消す球状艦首(バルバス・バウ)を用いて速力向上をはかり(竣工は翔鶴が先)、煙突などにおける蜂の巣構造の装甲、巨大な観測用の測距儀の装備など、進水時には世界最大最新鋭の艦型だった。就役当初レーダーは装備されていなかったが、その後電探が漸次装備されていった。 なお、副砲には最上型軽巡洋艦(当時)の15.5センチ主砲がそのまま転用されたが、これは海軍が海軍休日を破棄して条約型巡洋艦の主砲を15センチ砲から20センチ砲に入れ替えるのを最初から計画していたため、という説もある。

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連合艦隊旗艦
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1942年(昭和17年)2月12日、大和は連合艦隊旗艦となった[40]。参謀達はそれまで旗艦だった長門に比べ格段に向上した本艦の居住性に喜んでいる[41]。 3月30日、距離38100mで46cm主砲射撃訓練を行う[42]。第二艦隊砲術参謀藤田正路は大和の主砲射撃を見て1942年5月11日の日誌に「すでに戦艦は有用なる兵種にあらず、今重んぜられるはただ従来の惰性。偶像崇拝的信仰を得つつある」と残した[43]。5月29日、大和はミッドウェー作戦により山本五十六連合艦隊司令長官が座乗して柱島泊地を出航したが、主隊として後方にいたため大和が直接アメリカ軍と砲火を交えることはなかった[要出典]。6月10日、アメリカ軍の潜水艦に対して二番副砲と高角砲を発砲した[44]。同6月14日柱島に帰投する[要出典]。

大和が機動部隊と同行しなかったのは、戦前からの艦隊決戦思想と同じく空母は前衛部隊、戦艦は主力部隊という思想の元に兵力配備をしたからであり、艦艇の最高速度との直接的な関係はなかった。実際、主力空母のうち最も低速の空母加賀との速度差は殆ど0、飛鷹型航空母艦は25ノット(時速46.25km/h)で大和型戦艦より劣速である。ただ、飛鷹型空母は民間客船を改造した艦で、正規空母ではなく、航空母艦の護衛はより高速な艦が必要だったのは事実である。実際、空母の護衛には戦艦の中では高速戦艦に分類される金剛・比叡・榛名・霧島が用いられることが多かった。日本海軍の主戦力が空母と認識されたのはミッドウェー海戦での敗戦を受けてのことであり、この時点では少なくとも編成上は戦艦が主力の扱いであった。

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1942年(昭和17年)8月7日、アメリカ軍がガダルカナル島に来襲してガダルカナル島の戦いが始まった。8月17日、山本長官以下連合艦隊司令部を乗せた大和は、空母大鷹(春日丸)、第7駆逐隊(潮、漣、曙)と共にソロモン方面の支援のため柱島を出航する[45]。8月21日、グリメス島付近を航行し[46]、航海中に第二次ソロモン海戦が勃発した。航空機輸送のため2隻(大鷹、曙)をラバウルに向かわせたのち、3隻(大和、潮、漣)は8月28日にチューク諸島トラック泊地に入港したが[47]、入泊直前に大和はアメリカ潜水艦フライングフィッシュから魚雷4本を撃ち込まれた。2本は自爆、1本を回避している[48]。その後、トラック泊地で待機した。 9月24日、ガダルカナル島への輸送作戦をめぐって陸軍参謀辻政信中佐が大和に来艦、山本連合艦隊長官と会談する[49]。辻は大和の大きさに感嘆した[49]。だが、大和が最前線に投入されることはなかった。ヘンダーソン基地艦砲射撃に参加する案も検討されたが取りやめとなった[50]。 第三次ソロモン海戦では、老艦の金剛型戦艦霧島と比叡が大和と同世代のアメリカの新鋭戦艦であるサウスダコタとワシントンとの砲撃戦により大破、自沈した。この点で、大和型戦艦の投入をためらった連合艦隊の消極性とアメリカの積極性を比較する意見もある[51]。

昭和18年の行動
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1943年(昭和18年)2月11日、連合艦隊旗艦任務は大和の運用経験を踏まえて通信、旗艦設備が改良された大和型戦艦2番艦武蔵に変更された[52]。

5月8日、内地回航となった「大和」は空母「冲鷹」、「雲鷹」、重巡洋艦「妙高」、「羽黒」などとともにトラックを離れた[53]。「大和」は5月13日に呉に入港[53]。 呉では対空兵器を増強し、21号電探と22号電探などレーダーを装備した[54]。

昭和18年(1943年)、トラック島泊地に停泊中の大和
8月16日、主力部隊(戦艦3隻〈大和、長門、扶桑〉、空母〈大鷹〉[55]、巡洋艦3隻〈愛宕、高雄、能代〉、駆逐艦部隊〈涼風、海風、秋雲、夕雲、若月、天津風、初風〉)は呉を出撃し、トラックへ向かう[56][57]。 ソロモン諸島では激戦が行われ戦局が悪化していたが、大和はトラック島の泊地に留まったまま実戦に参加できなかった。居住性の高さや食事などの面で優遇されていたこともあいまって、他艦の乗組員や陸軍将兵から「大和ホテル」と揶揄されている[58](当時満州に満鉄の経営する高級ホテルチェーン、ヤマトホテルがあった)。作戦行動を終えた駆逐艦が大和に横付けし、駆逐艦乗組員が大和の巨大で整った風呂を利用することも多かったという[59]。10月中旬、マーシャル諸島への出撃命令が下った[要出典]。アメリカ海軍の機動部隊がマーシャルに向かう公算ありとの情報を得たからである[要出典]。旗艦武蔵以下、大和、長門などの主力部隊は決戦の覚悟でトラックを出撃した。しかし、4日間米機動部隊を待ち伏せしても敵は来ず、10月26日にトラック島に帰港する[60][要出典]。

1943年12月、「大和」は陸軍独立混成第一連隊をニューアイルランド島へ輸送する戊号輸送に参加[61]。「大和」は駆逐艦「秋雲」、「谷風」、「山雲」とともに戊一号輸送部隊として横須賀からトラックまでの輸送にあたることとなった[62]。

12月12日、「大和」、「翔鶴」、「山雲」、「秋雲」、「風雲」、「谷風」はトラックを出発、17日に横須賀へ帰着した[63]。

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まだまだ続きあるよ

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人員物件を搭載して12月20日に「大和」、「山雲」、「谷風」は横須賀を出発したが、12月25日に「大和」はトラック島北西150浬でアメリカ潜水艦「スケート」より魚雷攻撃を受け、主砲3番砲塔右舷に魚雷1本を被雷していた[64]。4度の傾斜を生じたが約770トンの注水で復元、試しに26ノットまで加速し問題が無かったので、速度を落とさず速力20ノット前後でトラック泊地へ向かった[64]。魚雷命中の衝撃を感じた者はおらず、わずかに傾斜したため異常に気づいたという[65]。爆発の衝撃で舷側水線装甲背後の支持肋材下端が内側に押し込まれ、スプリンター縦壁の固定鋲が飛び、機械室と3番砲塔上部火薬庫に漏水が発生する被害を受けた[66]。その浸水量は合計で3000-4000トンであると言われている[67]。敵弾が水線鋼鈑下端付近に命中すると浸水を起こす可能性は、装甲の実射試験において指摘はされていたが重大な欠陥とは認識されていなかった[68]。工作艦「明石」に配属されていた造船士官によれば、トラック泊地着後の「大和」は「明石」に「右舷後部に原因不明の浸水があり調査して欲しい」と依頼、工作部員達は当初、注排水系統の故障を疑ったものの異常はなかった[69]。そこで潜水調査をしたところ右舷後部に長さ十数m・幅五mの魚雷破孔を発見し、驚いたという[69]。同日、トラックに到着[70]。「大和」から人員物件は戊三号輸送部隊へと移され、補給を終えた部隊はカビエンへ向かった[70]。「大和」はトラックで応急修理を受けた後、1944年(昭和19年)1月10日に内地への帰還を命じられて出発する事になった。

レイテ沖海戦まで
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1944年(昭和19年)1月10日、大和、満潮、藤波はトラック泊地を出発する[71]。15日に瀬戸内海へ到着した[72][73]。 被雷により明らかになった欠陥に対して、浸水範囲をせばめるための水密隔壁が追加されたが、装甲の継手と装甲の支持鋼材の継手とが一致してしまっているという根本的欠陥は補強する方法もなく(支持鋼材の継手に角度をつけることでクサビ効果があると設計では考えられていたが、そのとおりには機能しなかった)、元のとおりに修理されただけであった[74]。この工事と並行して、両舷副砲を撤去し、高角砲6基と機銃を増設して対空兵装の強化を図った[要出典]。 なお、スケートによる雷撃の2ヶ月後、トラック基地の偵察飛行で撮影されたネガフィルム上に見慣れぬ巨大な艦影を発見したアメリカ軍は[注釈 4]、捕虜の尋問によってそれが戦艦大和・武蔵という新型戦艦で主砲についても45cm(17.7インチ)であると資料を纏めている[注釈 4]。

4月22日、大和と重巡洋艦摩耶は駆逐艦4隻(島風、早霜、雪風、山雲)に護衛され瀬戸内海を出撃した[77]。山雲は豊後水道通過後に護衛をやめて平郡島に戻った[78][79]。早霜も途中で護衛を切り上げて横須賀に向かった[80]。

大和隊は4月26日マニラ着、29日に同地を出発する[81][82]。5月1日、リンガ泊地に到着した[83]

5月4日、第一戦隊司令官宇垣纏中将は長門から大和に移乗し、大和は第一戦隊旗艦となった[84]。6月14日、ビアク島に上陸したアメリカ軍を迎撃するため渾作戦に参加するが、アメリカ軍がサイパン島に上陸したことにより渾作戦は中止となった[85]。渾作戦部隊(第一戦隊〈大和、武蔵〉、第五戦隊〈妙高、羽黒〉、第二水雷戦隊〈能代、沖波、島風〉、第10駆逐隊〈朝雲〉、第4駆逐隊〈山雲、野分〉)は北上し、小沢機動部隊と合流した。6月15日、マリアナ沖海戦に参加。大和は栗田健男中将指揮する前衛艦隊に所属していた。6月19日、前衛艦隊上空を通過しようとしていた日本側第一次攻撃隊を米軍機と誤認、周囲艦艇とともに射撃して数機を撃墜するという失態も犯している[86]。大和は発砲していないという証言もある[87]。同日、日本軍機動部隊はアメリカ潜水艦の雷撃により空母2隻(大鳳、翔鶴)を失った。 6月20日、アメリカ軍の攻撃隊に向けて三式弾27発を放った。大和が実戦で主砲を発射したのはこれが最初である[88]。6月24日に日本に戻る[89]。10日ほど在泊したのち、陸軍将兵や物資を搭載して第四戦隊・第七戦隊・第二水雷戦隊と共にシンガポールへ向かう[要出典]。7月16日、第一戦隊(大和、武蔵、長門)、駆逐艦3隻(時雨、五月雨、島風)はリンガ泊地に到着した[要出典]。この後3ヶ月間訓練を行い、10月には甲板を黒く塗装した[90]。

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レイテ沖海戦
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→詳細は「レイテ沖海戦」を参照

昭和19年(1944年)10月22日、ブルネイからレイテ湾へ出撃する栗田艦隊。
(右から長門・武蔵・大和、高雄型重巡洋艦4隻(摩耶・鳥海・高雄・愛宕)・羽黒・妙高。
1944年(昭和19年)10月22日、大和はレイテ沖海戦に参加するため第二艦隊(通称栗田艦隊)第一戦隊旗艦としてアメリカ軍上陸船団の撃破を目指しブルネイを出撃した[91]。だが、23日早朝に栗田艦隊の旗艦・重巡愛宕がアメリカの潜水艦の雷撃で撃沈されたため、大和に座乗の第一戦隊司令官の宇垣中将が一時指揮を執った。夕方に栗田中将が移乗し第二艦隊旗艦となったが、2つの司令部が同居したため艦橋は重苦しい空気に包まれた[92]。

昭和19年(1944年)10月24日、シブヤン海海戦で米軍機の爆撃に対して回避行動を取る大和。
24日、シブヤン海でアメリカ軍艦載機の雷爆撃により大和の姉妹艦である武蔵が撃沈された。このとき、大和にも艦前部に爆弾1発が命中している[93]。25日午前7時、サマール島沖にてアメリカ護衛空母艦隊を発見し、他の艦艇と共同して水上射撃による攻撃を行った[94]。

大和は距離32,000mで砲撃を開始した。当時大和砲術長だった能村(後、大和副長)によれば、射撃した前部主砲6門のうち徹甲弾は2発のみで、残る4門には三式弾が装填されていたと証言している[95]。都竹卓郎が戦後両軍の各文献と自身の記憶を照らしたところによれば、『戦藻録』の「31キロより砲戦開始、2、3斉射にて1隻撃破、目標を他に変換す」が概ねの事実で[96]、最初の「正規空母」は護衛空母ホワイト・プレインズで極めて正確な射撃を受けた。「その射撃は砲術科士官に望みうる最高のものであった」[97][注釈 5]。至近弾による振動でホワイト・プレインズは黒煙を噴き、大和ではこれを「正規空母1隻撃破」と判断して他艦に目標を変更したものらしい[98]。アメリカ軍側の記録では、ホワイト・プレインズは命中の危険が迫ったために煙幕を展開したとしている[99]。能村副長は、第一目標に四斉射した後「アメリカ軍の煙幕展開のため目標視認が困難となり、別の空母を損傷させようと目標を変更」と回想している[95]。また、軍艦大和戦闘詳報第3号でも敵空母が煙幕を張り大和から遠ざかる様に回避したため目標を他に移したと報告されている。次の艦はファンショー・ベイである[100]。

シブヤン海を航行中にアメリカ軍機の攻撃を受け回避行動を取る戦艦大和。魚雷攻撃を避けるため左へ回頭するところで、大和の左舷前方にはアメリカ軍機が投下した魚雷の航跡らしき白い筋が見える。
[101]
戦闘中、大和はアメリカ軍の駆逐艦が発射した魚雷に船体を左右で挟まれ、魚雷の射程が尽きるまでアメリカ軍空母と反対方向に航行することになった[102]。さらにアメリカ軍駆逐艦の効果的な煙幕や折からのスコールによって、光学測距による射撃は短時間に留まった。戦闘の後半で、仮称二号電波探信儀二型を使用したレーダー射撃を実施した[103]。この戦闘では、大和右舷高角砲と機銃が沈没する米艦と脱出者に向けて発射され、大和の森下艦長と能村副長が制止するという場面があった[104]。

アメリカ軍の護衛空母ガンビア・ベイに大和の主砲弾1発が命中して大火災を起こしたと証言もあるが、利根型重巡洋艦1番艦利根艦長黛治夫大佐は、著書で「戦艦部隊の主砲弾で敵空母が大火災を起こしたような事実はなかった」と強く反論している。アメリカ側の記録にも該当する大火災発生の事実はなく、ガンビア・ベイは午前8時15分に重巡羽黒と利根の20.3センチ砲弾を受けたのが最初の被弾とされている[105]。ガンビア・ベイへの命中弾という説は大岡昇平も「よた話」として採り上げている[106]。

wikiのコピペかな?引用先書いてないと著作権侵害になることあるから気をつけてね...(´ω`)

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